不登校の子の父親である公認心理師が語るブログ

不登校の我が子の出来事を、父親かつ教育現場で働く公認心理師の立場からお話します

期待するとがっかりする

フリースクールの見学ができなかった日。

仕事から帰ってきた母親である妻が、「どうだった」と私に尋ねました。

「うん、行かなかったよ。駅まで歩いては行ったけどね。」(私)

「まあそうだろうと思った。それでも、駅までは行ったんだね。」(妻)

「うん、すぐ『行かない』となったけど、診断書をついでにもらうためにも歩いて行きました。」(私)

「まあ、あまり期待しちゃいけないのかな、と。」(妻)

 

期待はしてしまう。フリースクールにいけるんじゃないかって、期待していた。でも、期待通りに子どもが行動できないと、がっかりしてしまう。その「がっかりしている親」に、子どもは気づいている。

親の期待に応えられない自分。その束縛と劣等感、罪悪感。子どもの心の成長にとって、どうなのだろうか。そのような意識に苛まれてきた学生を、仕事でみてきた。

元気のない我が子と一緒に生活するのは楽しくない。つらいだけだ。

もう、つらいのは止めよう。学校に行けないことは、悪いことではない。悪いことをしているわけではないのだから、罪悪感と劣等感を持つのは止めよう。

楽しく、学校に行かない。家で楽しく過ごしているなら、それでいい。

 

母親である妻もそう感じ始めてきたようだ。妻は妻なりに考え、行動し、そして感じ、「学校に行かなくてもいいじゃない」と納得しつつある。妻の顔もちょっと和らいできた気がする。

 

学校に行けない子どもを、無理に行かせることの無理、この「無理地獄」の試み。

親も子どもも疲労困憊し、消耗し、心が疲れて傷つきやすくなってしまう。

 

「できたらいいね。」「でも、できなくていいんだよ。」と、子どもに期待しない。子どもに期待しないと言うと、子どもを見捨てているかのように捉えられるかもしれない。

違います。子どもが「したい」と思えるように、情報提供したり、必要な援助はしてあげるのだけども、できなかったからといって、子どもも親自身も責めない。

「また、できそうだったら、やればいいんじゃない。平気平気。大丈夫。いいんだよ。」

子どもの心のエネルギーがちょっと増した時、無理に何かをしようとして、心のエネルギーを使い果たして、また「ゼロ」になる。その繰り返しをしない。子どもの心のエネルギーがもっともっと大きくなるまで、じっと待とう。じっと待つことは、本当に子どもを信じていないとできない。

見捨てているから期待しないのではなく、子どもを信じているから期待しない。