不登校の子の父親である公認心理師が語るブログ

不登校の我が子の出来事を、父親かつ教育現場で働く公認心理師の立場からお話します

子どもこそ、不登校であることに劣等感や罪悪感を感じている

フリースクールに結局行かなかった日、近所の方の視線を受け、とても辛そうだった我が子を見て、考えました。

子どもこそ、学校に行かないことを「いけないこと」「ダメなこと」と感じているんだと。

 Erikson,E.Hのライフサイクル論によれば、児童期の発達課題は「勤勉性」で、獲得に失敗すると「劣等感」を抱いてしまう。我が子は小学生でそれなりには過ごしていたので、それなりに「勤勉性」を獲得してきたようにみえる。しかし、中学校に行けないという事実により、「行けない(できない)自分」という「劣等感」を抱いてしまっている。これは、心理・社会的危機に直面している状態。とても危うい心理状態です。

子どもがこのように心理的な危機に直面している時に、最も拠り所にするのは養育者でしょう。私は「不登校であることを恥じることはない」と思っていましたし、思っていますが、それを「子どもに押し付け」ても、単なるストレスにしかなりません。子どもが、自分の心から「学校に行けない自分を認めてあげられる」まで、養育者にしかできない愛をもって見守ってあげることが大切です。

不登校で家にいるときは、養育者の抱え込むような愛で、子どもが癒されるようにしてあげること。それによって、子どもは再び成長するエネルギーを蓄えて、自ら次のステップへ踏み出そうとするでしょう。

精神分析家のW.Bionは、次のような理論を述べています、赤ん坊は空腹などの「得体のしれない苦痛」を養育者に投げ込む。養育者はそれをコンテイニングして、「それはおなかが減ったということで、ミルクを飲むことで解消されるよ」と、赤ん坊が受け入れられる形に変えてから、赤ん坊に投げ返す。赤ん坊はそれを受け入れて、精神が安定し、成長していく。この時に重要なのが、赤ん坊の投げ入れた苦痛をコンテイニングする「容器」の在り方です。投げ入れられた苦痛に「容器」の側が耐え切れず、コンテイニングできずに投げ返したり、無視したりすると、赤ん坊は心の安定を得ることができない。これは、その後の生き方に深い影響を与えてしまう。

このように言うと、そんな大層なことしてきたか、できるのか、と私たち親は思ってしまいますが、我が子を愛している養育者は自然にしていることなのです。

W.Bionは乳児期の様子から理論を導き出しましたが、この枠組みは、児童でも大人にも続いていく。

子どもが不登校になり、「学校に行けない自分」に深い悲しみと苦痛を感じている時、その苦痛を投げ入れる先は、まず養育者です。赤ん坊が感じている苦痛よりも、質的に難しくなって重たい苦痛になっています。受け入れる「容器」である養育者が、それをコンテイニングすることは、かなりしんどいです。

でも、フリースクールに行けなかった後、我が子と一緒にアイスを食べながら、私は思いました。「学校に行けなくていいじゃないか」とさえ思ってしまえば、「楽だ」と。

「学校に行けないことに対する劣等感」という「苦痛」を、我が子が父親である私に投げ入れてきた来た時、「容器」である私は「学校に行けなくてもいいじゃないか」とコンテイニングしてあげて、「今の状態でもいいんだ」と、言葉でなく、なにげない態度で、ゆっくりと返してあげようと決めた。

肩ひじ張らず、ゆっくりと。