不登校の子の父親である公認心理師が語るブログ

不登校の我が子の出来事を、父親かつ教育現場で働く公認心理師の立場からお話します

再び、子どもにおまかせ

フリースクールを見学しに行く日がやってきた。

朝、子どもを起こしてご飯を食べる。

「どうだろう。大丈夫かな。あまり刺激しないように『行こう』と言おうかな」と、おっかなびっくりだった。父親である私の声のかけ方ひとつで、子どもの返事の方向性が変わってしまうのではないかと、とても神経質になってしまった。

「今日、フリースクールに見学に行ってみる日だよ」と言ってみる。反応は、いまいちだ…。うーん、きびいしいか。

時間になったので、「じゃあ行こう」と促すと、「うん」と靴を履いてくれた。大丈夫かも、と期待が膨らむ。

「あれ、車じゃないの?」と我が子。

「電車で行くんだよ。でも、30分くらいだよ。」となるべく、かるーい感じで返答してみる。我が子の顔が曇る。

とりあえず、駅まで行こうとやや強めにに促すが、我が子の足取りは重い。

しかも、悪い塩梅に、ご近所の主婦の方が幼稚園の送り出し後で、ちょっとお話し中。小学校の通学班が一緒だったし、小さいころは近所の子ども同士で遊んでいたので、我が子が不登校になってしまったことは、百も承知。

なんとなーく、遠巻きに注目されてしまいました。これは、我が子にとってはかなりのストレス。それはそうでしょう。私としては、「不登校だからといって、何も臆する必要はない。」と"強く"思っておりますが、我が子にとってはそれは別。親が思う通りに子どもが思っているわけではありませんよね。

ご近所の目が切れるところまで歩いて行ったときに、「やっぱり、今日は行かない!」と我が子。

まあ、ここまでの流れからそうなるなとは覚悟しておりました。歩きながら、考えました。行きたくないのに行かせようとしたら、学校と全く同じだよな。意味ないよな。でも、本当は行って欲しかったな。行けばもしかしたら楽しいと思えるんじゃないかな。

いや、再び、"子どもにおまかせ"だ。

「わかった、無理に行かなくてもいいよ。じゃあさ、駅の近くのクリニックに診断書(本当に、大腸ポリープの手術のための紹介状を依頼していたのです)を取りに行くから、ここまで来たからそれだけもらって帰るのでいい?」

「絶対に電車には乗らないよね?」

「乗らない、スクールにはいかないよ。」

駅前のクリニックで診断書を受け取り、「コンビニでアイスでも買うか。」

「うん!」

そうだよな。我が子のホッとした顔と、アイスが食べられるという嬉しそうな顔をみると、これでいいんだ。子どもの心が元気であることが、一番大切。子どもの心の動きにびくびくしながら、子どもに話しかけるなんて、楽しくない。子どもも親も、「学校に行かなくていいい」と決めてしまえば、楽じゃないか。学校に行かなくたって、親子で一緒にアイスを食べる幸せがあるじゃないか。なんか、心がほぐれてきた気がした。

家で我が子と一緒に食べたアイスはとても美味しかった。

 

フリースクールという選択

学校に行かない、相談室にも行かない、部活だけでも行かない、となると、学校に行くのは無理かなあ。という感じになってきます。でも、できれば外部とのつながり、社会との接点を持ってい欲しいと思う。

そうすると、選択肢の一つにあがってくるのが、フリースクールです。

フリースクールも、決して多くはありませんが、あるにはある。しかし、どのスクールがいいのか見当がつかない。ホームページを見てみたり、資料を取り寄せてみたりするが、本当のところはわからない。

家から比較的近くて、不登校の子どもを専門にしており、間借りではなくて自前の校舎を持っていて、ネットでの評判も悪くはないスクールの体験会に、まず母親である妻が行くことにした。私よりも妻の方が「なんとかせねば」と急き立てられている。

さて、行ってみて、どうだったか。早速、妻から報告がありました。

スクールとしては悪くなさそうとのこと。体験会ではフリースクールの生徒さんがお話をしてくれたようで、「ここに来てとてもよかった」ということを一所懸命に語ってくれたようです。すごいな。本当に伝えたかったんだね。

そのあと、個別相談会なのですが、希望者の保護者が多く、とても順番が回ってこなさそう。不登校の子どもは本当に多く、不安を抱えている親が本当に多い、と実感したそうです。

個別相談とはいかなかったけど、スクールの中を案内してくれた先生が、「今度は、まずお子さんと一緒に来てください。見学して、少しスクールを体験して、お子さんが来たいと思うかどうかが大切です。親がむりやり来させても良いことはありません。」という話を、してくれたそうです。

うん、とっても大切なこと。このように言える先生たちであれば、いいスクールかも。

そこで、私が仕事を休んで、我が子と一緒にフリースクールに行ってみよう、となりました。我が子に話すと、あまり乗り気ではないが、パパと一緒ならば行ってもいいかも、という感じ。

ただ、電車に乗って行かないといけなんだよね。うーん、電車に乗って行く気力があるだろうか。行ってしまえば良さそうなんだけど。行って欲しいな。でも、難しいよな。あんまり期待しちゃいけないよな。

いろんな気持ちが錯綜する。

そして、フリースクールを見学しに行く日がやってきた。

 

相談室には行かない。部活は?

母親の希望に沿って、スクールカウンセリングや病院にも行った我が子ですが、相談室には行きたくないとのこと。どうも、スクールカウンセラーとは相性がいまいちなようで(妻談)、相談室に行くとスクールカウンセラーが居ると、子どもは思っていたようです。

そうそう、そのスクールカウンセリングに学校に行った際、ちょうどカウンセリングを終えて、廊下に出たら、小学校の仲のいい友達で、同じ部活に入った子が通りかかったそうです。

「おっ、部活行こー」と誘われて、「うん!」と元気に部活に行ったそうなんです。我が子が。

これには、私たち夫婦も少々色めき立ちました。「部活だけでも学校に行ってくれれば」と。

早速、我が子にも「部活だけ行くのでもいいと思うよ」「学校の部活の先生にお話ししておくよ」と話しました。

我が子も、部活だけなら行ってもいいかも、というまずまずな感じ。小学校の友達が同じ部活にいる、というのもかなり影響していそうです。

そこで、翌日の夕方に部活の先生に電話をしたところ、「部活だけ来るのでもいいよ」と言ってくれました。

仕事を終えて家に帰り、早速、我が子に「部活だけ行くのでもいいってよ」と伝えたました。

でも、我が子が「どうなんだろ?」という表情で、「いや、ママが『部活に行くと授業にも行かないといけなくなるかもよ』って言っていたよ」という返事で、部活はちょっと…という感じに。

えっ!? 何で?

子どものいない場所で妻に確認してみると、「部活に行くと担任の先生から学校にも来なよと言われるようになるんじゃないかと思って、そう言っておいた方がいいかと思って」とのこと。やはり、部活ではなく授業に出て欲しかったから、つい、ということでもあったよう。

うーん、正直がっかりしました。「何でそんな風に言っちゃうの!」と妻に言いたかったけど、もちろん言いません。それは止めた方がいい。妻も母親としていろいろ考えての行動ですから、その妻の行動をただ非難してしまうと、妻を追い詰めることになってしまう。「不登校の子の父親が妻を追い詰める」、これはまずいです。夫婦間が険悪になってしまう。この非常事態に、それはまずいですよね。我が子のためにも夫婦の協力は必要です。私は、我が子のためにと「グッと」言うのを我慢しました。

それから、「自分の考えが正しいと思いこみすぎる」と常々妻から指摘されていたので、それもあったかな…

「そうかー、学校の先生は部活だけでいいって言っていたんだけどな…。まあ、しょうがないよね。行かない感じになっちゃったかな。」と残念さは妻に伝えました。まあ、言外に「何でそんな風に言っちゃったの?」という非難は含めちゃっていましたね。

さすがに妻も「ああ、言わなければよかった。」と落ち込んでしまいました。さすがに、それはフォローをしておこうと思い、「まあ、どう言ったって部活に行くなら行くし、行かないなら行かないだから、子どもに言ったことは関係ないよ。」と本気で言いました。多分、妻がそう言わなかったとしても、部活には行かなかったと思っています。

そう、結論、「教室には行かないけど、部活にだけに行く」、なんてことがすぐ起こることはありませんでした。色めき立ちましたが、すぐ消えました。

学校が無理なら、もっと外に行き場を探してみよう。そう妻が思ったのも至極当然でした。

薬は飲まない!

母親である妻が、我が子を診察させるべく見つけてきた病院は、比較的近くにある総合病院。そこの小児科には、子どもが肺炎で入院した際など、お世話になっている。その病院に、子どもの心療内科を行っている医師がおり、かなり信頼できそうとのこと。

話を聞くと、良い先生のように思える。そこで、どのような診断がなされるかは、私たち夫婦にとっても、重要な判断材料となりそうだ。

受診の結果は。

抗不安薬の処方は必要ない。起立性調節障害でもなさそうだ。

我が子本人は、「薬は飲みたくないです」とはっきり言ったそうだ。

 

さて、どうしようか。

さすがの妻も、抗不安薬については同僚から「抗不安薬はやめられなくなるから、絶対に服用しない方が良い!」と強ーく言われたもいたようで、服薬の必要がないことにむしろ「ホッ」としている様子だ。

 

ちなみに、起立性調節障害についても、スクールカウンセラーから不登校になる要因として、妻は聞いていたようです。

確かに、起立性調節障害不登校の要因の一つになることはあると思います。

起立性調節障害では、自律神経系の異常で循環調節(上半身、脳への血流低下)がうまくできず、「立ちくらみ」や「朝起きられない」「気分不良」「失神や失神様症状」「頭痛」などの症状がみられます。症状は午前中に強く、午後に軽減する傾向があります。夜に目がさえて寝られず、起床時刻が遅くなることもあります。心理社会的ストレス(学校や家庭でのストレス)が関与するといわれ、ストレスで増悪するともいわれています。

実は、私が起立性調節障害でした(自己診断です)。小学生の頃から「立ちくらみ」は日常茶飯事で、毎日数回「立ちくらみ」していました。そのうち、「あっ、このタイミングで立つとクラクラするぞ」という予想さえできるようになりました。そんな時は、物につかまって、ゆっくり立ち上がり、失神を回避します。でも、うっかり失神することもしばしば。お風呂や部屋で、こっそり一人で、よく倒れていました。(親には言えなかった。)「朝起きられない」のは毎日。学校の登校班の集合時間に間に合ったことはなく、走って小学校に行ったり、遅刻したりしていました。そのため、忘れ物も多く、なかなかしんどかったです。しかし、私の親からは「怠けている」としか見られないので、自分もそうだと思い込んでいました。成人してからも、「立ちくらみ」や「失神様症状」はありますが、失神するのは稀になりました。

子どもだった私はつらい思いを抱え込みながら、何とか学校に行っていたわけです。でも、年に何回か、どうしてもつらくて、むりやり「熱を出して(時には体温計を擦って摩擦熱で温度を上げて)」学校を休んでいました。だから、「学校に行きたくない」と言えた我が子をうらやましくも、逞しくも感じるのです。

 

ともあれ、我が子は起立性調節障害でもなさそう。遅刻してでも相談室に登校できるかというと、しません。行きません。断固拒否!という感じです。

さて、どうしましょう。どうしても現代人は、病いの原因を探したくなります。原因を究明し、それに手を加えれば治療される。不登校になる原因を探り当てられれば、治る。そう考えるのも、無理ありません。しかし、切り傷や細菌感染と同じように、心の問題を扱えるのでしょうか。

子ども本人だって、理由は分からないのかもしれない。大人が「あれかな?これかな?」と聞いていると、「そうかもしれないかな…」ともっと分からなくなってしまうかもしれません。

 

私たち夫婦は、あまり、学校に行きたくない理由を根掘り葉掘り聞きだすのは、今はやめようということで意見は一致しました。私は、「行きたくない理由を聞き出そうとする」親の態度により、ますます我が子が精神的に追い詰められ、親に対しても「緘黙」してしまうのを恐れました。まずは、親こそが今現状の子どもを全面的に受け入れようとして、子どもを安心させること、それが第一と考えていました。妻は、私のように理論的にではなく、スクールカウンセラーや病院に行ったときの我が子の様子から、直感的に「我が子を追い詰めてはよくない」と感じたそうです。

 

でも、学校でなくても、外の社会には触れてほしいよね。そう考え始めました。

 

 

まずは、相談室に登校してみたら、どう?

母親である妻は、我が子がこのままずっと学校に行かなくなり、家にひきこもってしまうことを恐れていた。当たり前の気持ちです。夫として、その妻の恐れの気持ちを否定してはいけない。私だってその気持ちはある。

妻は私に、「あなたは周りに不登校から社会復帰した人がいっぱいいるからいいけど、普通はそうそうないからね。」と言っており、いくら私が「子どもにおまかせしよう」と言っても、直ちに納得できるはずがない。だから、私は妻の気持ちを優先して、妻が子どもを家から出そうとする試みをすることには同意していた。

母親としての妻も、この状態で「無理やり学校の授業にださせようとする」ことは消耗でしかないことは、さすがに分かっている。

まずは、相談室に行って、スクールカウンセラーに相談することから開始した。まあ、夫もカウンセラーですが。でも、自分の子どもに関するカウンセリングはできない。倫理的にもできないですし、無理です。なんてったって、当事者ですから。当事者が当事者をカウンセリングすることなど、できません。

ともあれ、我が子も「母親と一緒にスクールカウンセラーとお話しすることはやってもいい」ということであったので、予約をとって出かけて行った。

あっ、私は同席していません。妻としては「しようとしない夫」として映っていたでしょう。「私がなんとかしなければ」という必死の気持ちだったと思います。

私が仕事から帰ると、妻から早速報告が。

学校のカウンセラーの先生としては、「この子はエネルギーがある」という第一印象であったとのこと。スクールカウンセラーは、本当に消耗してしまったり、心が折れかけている子ども達を見ているので、なおさらそう感じたのかもしれません。

正直、その見立てに、私も内心「ホッと」しました。どうしても、我が子びいきで見てしまいがちだからです。

だけども、その次の意見には賛同しかねました。

精神科の先生に診てもらった方がいいということです。医師に診てもらうこと自体には反対しません。妻は医療従事者で私は心理師ですから、精神科への敷居は低い。

しかし、問題は次の意見です。

「不安が強くて学校にいけない場合は、薬を飲むことで学校に来れるケースが多い。」「今、相談室に来ている子でも何人か服用しており、相談室に来れるようになった。」

確かにそういったケースはある。薬が有効となるケースがあることは知っている。不安症(不安障害)の方だ。社交不安症や広場恐怖症、全般不安症、場合によってはパニック障害の方に処方されることがある。

しかし、抗不安薬といえば「ベンゾジアゼピン系」であることが多く、依存性が高い。依存性が高いとは、薬をやめようと思っても、なかなかやめられないということ。

正直、エネルギーがある我が子に抗不安薬を服用させる必要があるのか?そこは納得できない。

しかし、母親である妻は「何もしようとしない夫」の意見には聞く耳がない。仕方がないよね。そう映っているんだから。

妻は子どもを病院へ連れていくことにした。

ネット依存という言葉への恐怖

親の話し合いは続きながらも、当の我が子は学校に行っていない。

規則正しい生活を遅らせることは、親として絶対に必要という点では、私たち親の間でも合意ができているので、学校に行かない・行かせないにしても、今まで通りに朝起こし、夜寝させるようにした。

リビングにTVとTVゲーム、パソコンがあるので、不登校となった我が子は日中リビングにいることになる。母親である妻は医療従事者で日中は仕事のため、我が子一人で家で過ごすことになる。

お昼ご飯は、母親が用意しておいたり、自分でレンジで解凍して食べてもらったり、簡単な調理をしてもらったりして、すませるようにした。

TVゲームやネットの制限をどこまでするのか、夫婦で悩みました。

ネットはマイクロソフトとグーグルの子ども制限システム利用して、いわゆる「ヤバい」サイトにはアクセスできないようにした。と、同時に、ネットのメリットとデメリット、特に危険性について、我が子と話し合いをした。以前から、結構ニュースを見たり、新聞記事を読んだりして、親とも社会のニュースについて話し合ったりしていたので、ネットの危険性についてはかなりの自覚があった。SNSはしないこと、自分の個人情報をネットに載せないことなど、話をしながら確認し、私も「大丈夫かな」と思えるようになった。

時間制限は、日中はなし。夕方、7時以降はしない。と子どもと取り決めた。これは、先輩心理師の「TVだけが頼りだった」という言葉の影響が大きい。何もすることが無い、社会との接点すら感じられない、というのは危険すぎるとも思ったからだ。

まあ、時間制限をしてみたところで、親のいないところで守られるわけがない。約束を破られて嫌な思いをしたり、イライラしたりするくらいなら、破られる約束はしない方がよい。親の精神安定のためにも大切です。

ネット依存にならないのか。その恐怖はあります。アメリカ精神医学会が定めたDSM-5では、今後検討すべきものとして「インターネットゲーム障害」を挙げていますが、現在では「ネット依存症」と診断する基準は記載されていません。「やめたくてもやめられない中毒」としては「アルコール依存症」が有名です。

DSM-5では「アルコール使用障害」として診断基準が記載されています。

例えば、「アルコールを意図していたよりもしばしば大量に、または長時間にわたって使用する。」「アルコールを得るために必要な活動、その使用、またはその作用から回復するのに多くの時間が費やされる。」「アルコールの反復的な使用の結果、職場、学校、または家庭における重要な役割の責任を果たすことができなくなる。」などがあります。

これらの「アルコール」を「インターネットネット・TVゲーム」と置き換えると、分かりやすくなります。「ネットやゲームを始めると、意志に反して止められなくなる。」「ネットやゲームに多量の時間を消費してしまい、仕事や学業などに甚大な影響がある。」とったところでしょうか。

もちろん、診断は一般の方がすべきことではありません。心理師でも診断はできません。自己流の判断は、ただのラベル貼りとなり、ステレオタイプの見方・偏見が増長されて、デメリットしかないです。精神科医が慎重に判断することです。

ともあれ、不登校となった子どもの親は、家で「ネットやゲームばかりすることで、学業に支障をきたし、仕事にもつけずに働かなくなって、子どもがずっと家にひきこもってしまうのではないか」という恐怖を心の底から感じています。子どもの将来を案じている親としては、当たり前の感情、気持ちです。私もそうですし、母親である妻もそうです。

 だから、このまま、母親である妻が「学校にいかなくてもいい」として、放っておくことができなかったのは、当然のことであった。

 

 

「子どもにおまかせ」と妻に伝えてみた

家に帰ると早速、妻に「子どもにおまかせしよう」と伝えてみた。

心理師の先輩の話は時々していたので、なんとなく話はしやすい。

しかし、妻は「でも、その先輩は自分で大検を取って、心理師になっているんでしょう。大学院も出て。そもそも優秀だったんじゃないかしら。優秀だったら学校に行かなくたって、勉強も何とかなるし、やりたいことだけを専門学校とか大学から始められるけど。うちの子はそれができると思う?」

うーん、それはそれで正しいと思う。

 

しかし、「おまかせ」という4文字に含まれる内容には、いろいろなことが含まれている。

まず、子どもの自主性を尊重する、という親の態度。

児童期になると、幼児期に獲得した発達課題である自律性や積極性(自主性)を「勤勉性」という発達課題の中で発揮していく段になる。

学校に行っていれば、勉強や運動といった学校教育のなかで、その勤勉性を獲得するべく自律性や積極性を発揮すればいい。さらに中学・高校と進むにつれて「自分とは何か」というアイデンティティ(自我同一性)の獲得のためもがくことになる。多くの親(私も)は、その形を望んでいる。

ところが、子どもが不登校になってしまうと、子どもの自主性を尊重し、学校に行かないことを承認してしまうことに戸惑いが生じる。妻の意見も、もっともだ。

 

しかし、子どもにエネルギーがあれば、「自分がしたい」と思うことはしようとする。不登校であった本人(先輩心理師)から、そう言われると、そこは、そうなんだよな。

しかも、私の同僚にはもう一人不登校であった教員がおりまして。その同僚は中学・高校とほとんど学校に行かなかったそうだ。親のプレッシャーがあり、リストカットなどかなりやばい状態であったが、親友がいつもそばに居て、一緒に学校に行ってくれたり、辛そうだと「一緒に学校をさぼってくれたり」したそうだ。同僚はその親友がいたからこそ、今の自分があると言っている。親には「ただ、放っておいて欲しかった」そうだ。

その同僚にも我が子の話をすると、「大丈夫ですよ。自分で動きますよ。」という返事であった。

周りに不登校の人だらけ、という方が珍しいのかもしれない。

しかし、これまでの我が子を見てきているからこそ、心のエネルギーさえあれば、自分でやろうと思えば自分で動き出すのではないか。そこを信じてみたい、という気持ちがあった。

そんな話し合いが、まだまだ夫婦の間で続いた。